五感のうちのどの感性をランダムに挙げたとて、ナメック人は地球人と比ぶべくもない能力の高さを発揮する。ましてや今、舞空術とはまた違った気の使い方により、墨を流したような宙に浮かんでいるピッコロと比するなど、鼻で笑われても文句は言えない。
その恵まれた、優れた感覚で以って、ピッコロは地球人として成長した者の姿を捉えていた。
つい数日前に終結した大きな戦いは、久々に彼の最も親しい弟子との再会を齎した。既に家庭を持った彼が心に何かを抱え、ことさらゆっくりとした速度で、しかし気を抑えることなく近付いてきているのを、敏感な受容器が察知している。
ピッコロは目を凝らすことなく、逆に瞳を閉ざした。
緑の瞼の裏に鮮明に蘇るのは、悪の魔王の存在を揺るがす「情」を芽生えさせた、底知れぬ何かを抱え持つ、ちいさなこどもの姿。

master and student

激しく舞う水飛沫が白いマントに跳ね返され、たよりなげに宙に浮く。すぐに水滴の玉は点となり、やがて消えてゆく。滝壺は闇と同化しているからか、水滴は濃厚な水の匂いとなり、夜気に溶けたような錯覚すら受ける。
昼の常識が危うくなる時間帯。それが、夜だ。
落ちる水を逆流させるように、瞑目しつつピッコロは時の流れを丹念に辿る。
最初に浮かぶのは、黒髪に黒い瞳。殺気立つことが愚かしく思える程、あどけない笑顔を見せる子供の立ち姿。
子供は記憶の中で愛嬌たっぷりに笑い、はにかみ、大層嬉しそうに声を上げた。泣き顔ばかりだった表情は、いつしか凛々しさを持ち合わせることになった。特に、ピッコロが目の前で崩れ落ちたその瞬間からは。
賢い子供は怯えをすぐに払拭し、猿の子が親に懐く動作そっくりに、ピッコロを一心に慕った。ナメック星にまでやってきた弟子の手によって甦ったピッコロは正しく理解していた。昔の己が理解できなかった、あたたかなものに対する戸惑い、戸惑いを否定することによって生まれる苛立ち。満更でもないと、彼は思っていた。この信頼になら応えてやりたいと願う彼の心は、ふと気付けば産まれたときとは随分と異なってしまっていた。
これが情というものかと、不思議な思いをしたことをよく覚えている。
同時にやり場のない苦味を感じた。己は親の心を殺したことになるのだろうかと。
らしくもない感慨は、同化した神に由来するものだろうか。ピッコロは首を振る。無意味な仮定を好まないのはピッコロの本性だ。
ふと、ピッコロの呼吸がひたりと止まる。
記憶から掘り出されたのは、今回よりも遥かに昔、まだ片手の指に納まるほどの、地球の危機の記憶だった。
「・・・親を子が殺す、か」
改めて、物騒に過ぎる台詞がからりと唇から零れた。それは、己に向けられたものではない。


つい先日のことのように思える、ベジータ、ナッパ、ラディッツとはまた違う運命を辿った、サイヤ人ターレスの襲来。幼い悟飯とまだ一度しか界王に会っていない悟空がいなければ、地球はあわや寄生植物に根こそぎ喰らい尽くされ、星としての生を失うところだった。
痛めつけられていた悟飯を、ピッコロは迷わず胸に抱きこんだ。エネルギーの矢が霰のように背に打ち込まれた灼熱の痛みは、思い出そうとすれば疼きと共に想起することが出来る。
いくら窮地に陥った弟子を守るためとはいえ、敵に背を向けてしまったのは浅慮だった。ピッコロは冷静に判断を下す。
惜しみない守護を与えるべき存在とはいえ、盲目に手を差し伸べるなど厭うべきだ。
「全く」
その呟きには、静かな諦観と甘みが混じっていた。
地球人の合間にナメック星人が佇めば、植物のような暮らしは望めず、誰しもふたつの性を有することになるのだろうか。それとも悟飯との数奇な経験がそうさせたのだろうか。
『サイヤ人とはそういうものだ!』
弟子、孫悟飯へと侵略者が言い放った非情の言葉を、思い起こすように舌に乗せながら、ピッコロはつらつらと考える。
「親殺しなど、純粋なサイヤ人でもあるまいし・・・悟飯がそんなことをするはずもなかろうに」
確かに悟飯は喜怒哀楽が激しい。人一倍激しいように思えるのは、普段が穏やかだからか、それとも地球人の子供と比すれば異常なほどの困難に身を置き続けていたからか。
ただ。
「殺さんだろう、あいつは」
優しいのだ。悟空のように無制限に広い懐を持っているのではなく、他者を傷つけたくない一心で、悟飯は戦いの場で躊躇いを見せる。
孫一家を斜に見る・・・あのサイヤ人の貴種が評すれば、悟空は特定の生き物に入れ上げないお調子者であるし、悟飯はそもそも己が傷付きたくないだけではないかと言うかもしれない。ピッコロは想像の意見を許容する。あらゆる意味で特別な孫親子、特に悟飯であるが、手放しで百点満点をつけてやることは出来ない。当然だ。
「・・・」
想像に遊んでいるにしては、ピッコロの表情は硬い。


小さな、逞しさには程遠い、エネルギーを圧縮させた姿を少しばかり成長させてみる。しばらく見ていない割には、上手く像を描くことが出来た。
少年が惑っている様は、表情を見ずとももはや気だけで分かったものだ。
いいのか。べジータがピッコロへと、静かに問いかけたことがあった。
二人の目は悟飯を追っていたから、何を、とは問わず、ピッコロはただ鼻を鳴らした。
戦場において見せるアンバランスさが宜しい訳がない。他人に言われなくても分かっているのだ。
迷うな。怯むな。臆するな。冷静な頭で戦況を分析し、何が最も有効であるか、戦術を用いながらも戦略のレベルで戦いを見ることを忘れるな。
それでも怒りを覚えることがあるならば、感情を開放しろとも教えた。
感情に身を任せるのは、最後の手段であれと。
何故なら、精神に傷を負うのは。

『おとうさん』

倣岸に天を示す金色の髪と、冷たいブルーグリーンの双眸が、痛々しい悲しみに染まっていく。
ピッコロは首を振る。
あの慟哭は思い出したくもない。
戦闘民族の粋たる少年の嘆きは天を裂き、地を割り、己を殺さんばかりだった。
「・・・ふ」
僅かに顎を引く。首を振る。あれは、断じて親殺しなどではない。
悟空の選択だ。悟飯の責任などでは、ない。
嘆き魘される頭の良すぎる少年を、幾夜守ってやったことか。
ピッコロの成果は少ないだろう。それでも、少年は無事にすくすくと育ち、青年となる。
融合を繰り返したナメック星人よりも、凄まじい感情の振れ幅を持つサイヤ人と地球人の混血児は、成長と共に強くなっていった。
体力。精神力。索敵能力。気のコントロール。それから、体術。
全ての分野において、悟飯は師を上回った。
幼い彼の潜在能力を見抜いたピッコロの正しさは、証明されたのだ。
小さな星で産まれた、二十にも満たない青年は、宇宙を滅ぼすことさえ可能な魔人を翻弄した。
流星よりも疾く、地の震えよりも激しく、津波よりも凄まじい気を奮い立たせ、悟飯は戦った。
サイヤ人としての酷薄な血。地球人としての感情の残酷さ。
地球最強の戦士は、ピッコロが昔望んだ通り、ただ強くそこに在った。

「あなたの望んだとおり、僕は強くなりました。誰よりも、何よりも」

身震いするほどにうつくしい満月を背負い、青年は不意に声を発した。
いつの間に至近距離まで迫っていたものか。どうどうと雪崩落ちる滝の音にも掻き消されず、音はいっそ穏やかに優しいまでの響きを纏い、ピッコロの耳朶に絡み付いた。
音を引き剥がすように耳を痙攣させると、ピッコロは静かに瞼を持ち上げた。
「おまえのことを考えていた」
「ほんとうですか。嬉しいな。この間頂いた勲章よりも嬉しいです」
「そんな顔をするんじゃない。俺は、おまえが・・・悲しむところは見たくない」
「どうして?僕はとても嬉しい。嬉しくて、楽しくて、もうはちきれそうですよ。あなたが僕でいっぱいになっていると考えると、達してしまいそうになる」
即物的な台詞を吐いた後、唇が微笑を浮かべる。少年時代に柔らかかった髪は、今硬質さを帯び逆立っている。霧にしんなりと水気を帯びる髪から、ピッコロは視線を下げる。
昔から人懐っこく幸せそうだった瞳は、そのまま両眼に嵌り続けていた。違うのは、芯になった部分の温度だけ。
「父さんも、半分くらいはそうですけど・・・あなたはまるきり、僕の戦いの象徴だった。怖くて、辛くて、悲しい血まみれの戦いを代弁するもの」
小さい僕に手ずから体を鍛える喜びを教えてくれたのはあなたでしたね。悟飯は息継ぎもせずにそう言った。
何かを待ちきれない様子で、すい、と瞑想のポーズを取る師に近寄る。ほう、と感極まった息を零す。
「ああ、でもこんなに柔らかくて切なくなる気を、僕は知らない。無条件で受け入れてくれる、静かで、理解に満ちていて、少し厳しくて、たくさん暖かいあなたの気」
正邪という相反するものを身に負った師と、弟子の抱える矛盾はよく似ている。だからピッコロは僅かに苦しげに、瞳を細める。
「・・・悟飯。おまえはすこし、おかしいんだ。おまえに流れるのは、愚かなほどに懐の広い孫悟空と、子を想う心には誰にも負けない母親の血だ。あのべジータとて、今は地球に住まう地球人だろう。平和になった今、戦闘民族のサイヤ人などどこにも」
「嘘吐くなんて、らしくないです、ピッコロさん」
ピッコロの目は、悟飯を追えない。コンマ数秒の後、青年の面はピッコロを下から覗き込む形になっていた。いつの間にか、目尻が吊り上り、修行でなく戦闘時の表情となった悟飯は唇を動かす。
「サイヤ人はここにいます」
悟飯はうっすらと唇を持ち上げる。力量差を確信した時に見せる笑みを、はらはらしながら見守った記憶が懐かしい。
「べジータさんはブルマさんに敬意を持っています。ブルマさんの才覚と人格に。たぶん愛していると言っていいでしょう。あれはお父さんの影響です。お父さんがべジータさんに情を教えた。でもお父さんは?ふふ、お父さんはね、そりゃあ家族が、お母さんが大好きですよ。でも、あれは愛じゃない。お父さんは優しくはないんです。だって、サイヤ人だから」
「落ち着け。お前らしくないぞ。論理が破綻している、第一、孫悟飯は純粋なサイヤ人ではない」
「遺伝子を調べてみたんですけど」
唐突に、満ちた月を焼き滅ぼさんとするように立ち上っていた気が納まった。残り香すらふつりと消え、ピッコロの嗅覚はひっそりと水の香を認識する。敵に身を潜められたときの置き火のような焦燥感が、ピッコロの皮膚の下に蟠る。
「界王神さまに引き出して貰った力を発揮したときの僕は、サイヤ人ベースなんですよ」
「馬鹿な。髪も目も黒いままだったじゃないか。あれは地球人であるおまえが最大限に力を引き出した姿ではないのか」
「知ってるくせにピッコロさん」
僕は戦いを楽しんでいたんですよ。
特に怒りはなかった。
お母さんやビーデルさんを殺されたと聞いても。
悟飯は猫のように体を摺り寄せる。マントの肩当ての下に冷たい手が滑り込む。
「あの時僕は正気でした。正気で、冷静に、興奮していたんですよ」
「違うだろう」
「違いません」
「・・・悟飯」
「ほら、僕はあなたの望むサイヤ人に成長した」
「俺は」
ピッコロは怒りもせず、身を引きもせず、師弟関係を逸脱した礼を失する行為を甘んじて受け入れる。体で受け入れながら、言葉で翻意を促す。
「俺はおまえを・・・傷付けたくない。強くなろうが、成長しようが、そんなことは関係ない。悟飯、お前を」
「それなら今この時!降りてきたりしないで、デンデと一緒に神殿に閉じこもっていればよかったんです」
霞を裂き、音もなくマントが落下していく。顕になった肩に、敬虔な仕草で悟飯が口付ける。
「そういえば昔、尻尾の付いた異星人がサイヤ人は親を殺すものと言っていましたね」
青く染め上げられた帯を解く。
「これも親殺しのうちに入るのかな。ねえピッコロさん」
悟飯は滑らかな皮膚の張り詰めた横腹に、愛しげに掌を擦り付けた。
「頼りにして、尊敬して、愛していたあなたを傷付ける行為」
にこりと笑ってピッコロを見上げた悟飯を視界に納め、闇を掻くように瞬きを繰り返してから、ピッコロは低い声音で囁いた。
「・・・何故、泣いているんだ」
「あれ、泣いてますか、僕」
乾燥した声色で、雨でも降り始めたのを確認するかのように悟飯は言葉を反芻した。
「泣いてるなんて、へんなの」
「今だけじゃない。お前が泣いているのを俺は知っている。お前は断じて親殺しなどではないというのに」
滝壺で砕けた水の破片が、浮かぶ彼らの身を包む。それらに混じって、塩辛い水が落下する。興味深そうに悟飯の硬質な輪郭を這う水を眺めていたピッコロだったが、おもむろに紫の舌を差し出すと、顎から落ちかけていた涙を絡め取った。
「水の味ではないな」
「ピッコロさん」
「俺の前だけでおまえが好きに振舞えるなら、思うようにすればいい。多少押し付けがましくとも正義感の強いお前だ。認めたくない衝動が身の内にあるのは辛かろう。なに、そのうち年を重ねれば折り合いが付いていく。それまで俺は、お前が呼べば・・・そうだな。たまには神殿から降りてくるのも吝かではないからな」
静かに静かに返答を待つ師に、どこか夢見るような瞳を以って悟飯は呟いた。その表面は潤んでいるが、既に水分を溢れさせてはいない。
「僕が苦しいときでないとあなたは手を差し伸べてくれはしない。地球が危機に晒されなければ、姿を現すことさえしてくれない。僕は誰も叫ばない、誰も傷付かない、誰も泣いたりしない平和を望んでいたけれど、そこにあなたはいないんだ。僕はあなたの眼差しを感じていたいのに。ねぇ、どうすればいいのピッコロさん。僕は天下一の大天才だけど、僕の脳じゃ処理しきれないよ。この頭は」
ぐり、と目を細めながら悟飯は己のこめかみに親指を押し当てる。強く、強く。
「矛盾で溢れ返っています。今にもピッコロさんに酷いことをしたくて、嫌なのに嬉しがっているんです」
「・・・悟飯」
「タイムマシンが論理的に存在することは僕もあなたも知っています。畑違いですが、無数のパラレルワールドが存在することはもう分かっているんでしょう?その中の一つがひっそりと歪な形をしてしまっても」
「やめろ。自分が苦しむようなことを言うな。お前は既に学者として大成しているのだろう」
轟々と滝の音が師弟の間を裂くように音の線を伸ばす。無数の音波に負けない、低く艶やかな声色が、悟飯の耳を通り抜け、脳を犯す。
「もう少し年を経ろ。戦闘民族としての血が老いるまで。そうすれば、親殺しなど馬鹿げた言葉はどこかに消えてなくなる。俺と縁側で茶を啜れるようになる。俺は水だがな」
諭す口調は、悟飯だけに向けられる特権的な気遣いに満ちている。そもそもピッコロが言葉を飾るのが珍しいのだ。沈黙か事実かが彼の悟飯以外の存在への優しさである。穏やかに宥めるなど、考えられないことだった。孫悟飯という人間はその他大勢の遥か彼方、ピッコロにとって最も重要な部分に居座っているのだ。
悟飯にとってもそれは変わらない。敬愛しながら厭い、近付きたいのに近付けず、ままならない想いを持て余しつつも、悟飯にとってのピッコロはヒーローである父親とほぼ同位置にある存在だった。ただひとつ父と師が違うとすれば、師は誰よりも悟飯を大切に思ってくれているということ。そして悟飯の中に、師の感情の暖かさに付け込み、奪い、食いちぎってしまいたくなる衝動が存在しているということだった。
悟飯は師の首筋にそうっと手を伸ばす。尖った耳朶の下から鎖骨まで、ゆっくりと辿り下ろした指は、一瞬後には滝壷に落としたはずのマントを掴んでいた。重く水に濡れそぼった布地は、また瞬き一つのうちに乾ききってしまう。
常人では持ち上げることすら出来ないマントの肩当てが、重い音とともに粉砕された。布地を一振りすると、悟飯は口付けた肩の皮膚を隠すかのように、そっとマントをピッコロの背に回す。耳に顔を寄せ、囁いた。
「今日は何も起こらなかった」
「・・・ああ」
ピッコロは何もかも受け入れた静かな瞳で首肯した。
「そうだな。俺は誰にも会わなかったのだろう」
「このままずっと、僕が白髪のお爺ちゃんになるまで、何もないことを祈っていてください。ピッコロさん」
今、あなたに諭されて従順に従った振りをすることが、僕に出来る最大の敬意の表現なんです。悟飯は呻くように言う。
「今度あなたの道と僕の道が交差することがあるならば、僕は自分を抑えきる自信がありません」
不穏な熱を孕ませた悟飯の言葉と、目も合わせずに飛び去る気の欠片が、ひっそりとピッコロにため息を吐かせる。
吐息は、不肖の弟子に呆れているようにも、緊張で詰まった息をやっとのことで吐いたようにも見えた。

 

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めるへんです。
劇場版のターレス戦を見た後書いたはじめての飯Pでした。
劇場版だけで地球は何回崩壊したりしかけるのか。そしてピッコロさんは何回悟飯を庇うのか。
個人的にはVSメタルクウラの劇場版DVD六番目が一番好きです。
DB正史の時間軸よりも、パラレルのパラレルが多くなりそうです。