あじさい


 

瑞々しい紫の花の塊を、悟飯はデンデと共に覗き込む。
「これはまた、きれいに咲いたね」
「地球のアジッサも美しいものですね。生きようとする生気はこちらの方が強い気がします」
香りはするのかな。そう言って顔を近づけたデンデは、朝露の乗った鞠のような花塊に鼻を濡らされ、わあと気の抜けた声を上げた。
「えへ、驚いた?神様!」
にゅうと首を新緑の葉から覗かせたのは、ミニチュア悟空と感嘆されることも数知れない悟天だった。弟の悪戯に、悟飯は苦笑する。
「こら悟天」
「へへへ、神様もピッコロさんも面白いから好き!」
「ほう、俺が面白いとな」
落ち着いた声色が、紫陽花のさらに向こうから聞こえる。悟飯は眉を持ち上げた。そうすると、幼いころとあまり変わらない無邪気さが押し出される。
「ピッコロさん!」
兄弟の声は見事に同調した。片方は驚き、片方は歓喜という違いはあれ。
「悟天。トランクスに負けたからといって、時間制限を割ってまで反撃をするのは宜しくないな」
「・・・でも」
「悪いと思っているから逃げ出したのだろう。さっさと謝ってしまえ。馬鹿者が」
「でも、トランクスくんだってこっそり剣を使ったりして」
「悟天!」
ピッコロの怒声は骨にまで染みる。びりびりとデンデの触覚が震えるのを視界の隅に捉えながら、悟飯はゆっくりと立ち上がっていた。
目尻を吊り上げたピッコロは、つい先ほどまでの瞑想を忘れたかのように、強い声を上げている。ただ、黒い瞳だけはじっと小さなこどもの動向を余すところなく見守っている。ピッコロは昔のように憤激だけで指導を行うことはなくなった。たまにチビたちに振り回され、感情をあらわにすることはある。それでも、たまに、だ。
「兄ちゃあん・・・」
甘えるように目にいっぱい涙を溜めた弟に、悟飯は肩をすくめた。
「ピッコロさんははやく仲直りしなさいって言ってるんだよ。おやつの時間に気まずかったら、悟天もつまらないだろう?そういう時はね、早く謝っちゃえばいいんだよ。文句を言うのはそれからにしなさい。逃げるなんていちばん良くないことだよ」
「・・・トランクスくん怒ってる」
「怒ってもらえるのは嬉しいことなんだよ?悟天。それはね、気にしてもらってるってことなんだ」
「わかんないよ、兄ちゃん」
どう言えばいいのかな。悟飯は腕組みをするかつての師に目線を合わせる。軽く目の上を跳ね上げるピッコロの目を捉えたまま、言った。
「興味がなくなった相手には、人はもう怒るなんて疲れること、してくれないんだよ」
「・・・」
ピッコロはじっと悟飯の乾いた視線を受け止めている。
聡いデンデは僅かに焦りを滲ませ、よく知る対照的な師弟を代わる代わる見上げていた。
悟天だけは、口をへの字にして床を睨み付けている。容赦なく照りつける太陽が、こどもの影を黒く床に刻み付けている。紫陽花を挟んだ師弟の影も、小さな地球の神の影をも。
「・・・分かったかい。分かったら行ってきなさい」
こくり、と悟天は小さな頭を肯定の形に動かすと、弾かれたように宙を裂いて飛んで行った。
気持ちが定まれば、猪突猛進なのが幼い悟天の信条だ。なんだかんだ言って年下の友人の兄貴分を気取っているトランクスも、素直に悟天が頭を下げれば、すぐに本来の仲の良さを取り戻すことだろう。五分後には、気に入ってしまったピッコロの寝所で、二人仲良く昼寝をする姿が見られるかもしれない。
「では・・・」
デンデは小さく頭を下げると、強く深く視線を絡ませた二人に背を向けた。
昔は純粋に互いが互いを思い遣っているように見えた。それが最近は、時たま優しいだけの感情を表さなくなってしまったことを、デンデはとても悲しく思う。ピッコロと悟飯の関係は、ひそかに神と地球人の縮図であるとデンデは考えていた。無償の愛を注ぎ、見守るピッコロと、無条件に師を慕う悟飯。理想的な関係は、どこでかたちを崩してしまったのだろう。
「ピッコロさん、北に行きませんか」
遠ざかっても、ナメック星人の敏感な耳は、抑揚を失った悟飯の声を拾い上げる。
「ああ」
何も聞かず首肯しただろうピッコロの表情を目にしたくなるのを、デンデは必死に我慢しようと試みた。複雑な生を歩んできた同族に対して、それはあまりにも非礼だ。平常では心を読む能力を有するデンデでも読み辛いピッコロの心を、暴くと同等の行為。
「そうそう、ピッコロさん、紫陽花の花言葉ってご存知ですか?」
「さあな」
「貴方は美しいが冷たい人だと」
「怒ってほしいのか?悟飯」
ふふ、と悟飯が笑った気配がした。
「怒らせてもいいんですか、ピッコロさん」
どこか悲しい言葉の応酬に、デンデは耐え切れず振り返る。
宙に浮かんだ悟飯の、筋肉に覆われた腕が泳ぐようにピッコロに近付く。繊細に慄く指先が、葉に止まる蝶のようにやわらかく緑の頬に触れる。
寄せられる唇にも、だらりと両腕を地に向けたまま、ピッコロは微動だにしない。ただ無防備に待ち受けているようにも、困惑のあまりに動けないようにも、余裕の証のようにも、偉大な先人は見えるのだった。